昭和41年04月23日 朝の御理解



 人もよけれ、我もよけれと、人より我は尚よけれ。人もよけれ、我もよけれ、人より我は尚よけれというが、信心をさして頂くにも、まず我が身におかげを受けて、そして、後に人を助けてやれと、自分はどうなってもいいと、お国さえ立てば自分はどうなってもええ、道さえたてば自分はどうなってもいい、子供さえおかげ頂けば、まあそう云う様な事を申しますね。
 昔の忠臣義士と言った様な方達はもう、自分の身は何処で果ててもいい。だからお国さえ立てばとね、それぞれの例えばお道の信心に於いてもそうである。道さえ立てばいい、道が発展さえすればいい、自分はどんなに難儀苦労しても良いとね。それは国を思う一つの大きな愛情がある、教団を思う大きな愛がそう言う風に思わせる。又行動させる訳で御座いましょう。
 けれども、親が子の為にもう私は、どげんなってもいいと思うと、もう子供さえ助かってくれればこれは親が子に対する一つの愛情なのであるね。けれども、それが果してそれでよかろうか。教祖の神様はそこの所を私は、まあ、ずばり、そのものずばりに教えて下さっておると思うんですね。人もよけれ、我もよけれ、人より我は尚よけれ、と。私はお道の信心はこれでなかりゃいけんとね。
 もちろん、人もようなからなければならんね。自分もようなからなければならんけれども、何というてもまず、自分自身が尚よけれでなからなければならんのだと、先ず我が身におかげを受けて、まず、我が身におかげを受けてそして、後に人を助けてやれとね。そりゃ、ある意味合いでですね、人の為に自分がその、も、自分はどげんなってもよいと言った様な考え方は。
 まあ、ある意味では私は偽善だと思うんですね。自分が助かる為に、そんな事を言っておると言った様な気もするですね どうでも、人より我は尚よけれ、先ず我が身におかげを受けてそして、後に人を助けてやれ、ここんところを一つ、私はよく信心で分らして貰わなければいけんと思う。皆さん御承知でしょうか。「いっとうよう」というまあ宗教団体が御座いますね。「西田てんこうさん」でしたかね、この人は、八十幾つかになられるおじいさんですね。
 「幸せ劇団」というあのお芝居が田舎にこう回って参りましょうが。あちらの園長さんなんですよね。もう、非常にまあ、出来た方らしいですね。高橋正雄先生あたりも一時はその「いっとうよう」の「てんこう」さんのいわゆる支持に帰依されて、あちらに一時おられた様な時代があった位ですもんね。その「てんこう」さんの言うておられる言葉の中にですね、大抵の問題は欲を離せば解決すると言うておられますよね。
 まあ、絶対とは言うておられないけれども、大抵の問題はまあ、私共のまあ、これは私共が言うておる問題だったらもう、絶対それでおかげを頂くでしょうね。大抵の問題なら欲を離せば解決する、まあ私共の様な、まあ凡夫の表現を持ってするならですね、もう、大抵でなくても、もう、まず私は、欲を離せば問題は解決すると思うですね。そこん所を教祖の神様は、我情我欲を離れて真の我道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてありと言った様な風に教えておられます。
 問題は我が身は神徳の中に生かされてあるという喜びに浸らして頂くね、そこにまあ、自他ともに助かって行く道が開けて来る訳なんですね。為に矢張り先ず、自分自身が助からなければならない。自分自身が助かると云う事は、自分が欲を無くすると云う事。人より尚よけれと、先ず、我が身におかげを受けてと云う事はね、先ずは、我が身におかげを受けると云う事は、そう云う事だと思う。
 信心によって先ず、自分の我情が我欲が離されるね、そこから私共はね、又別な世界とでも申しましょうかね( ? )を一つ高められた世界に住む事が出来るね。私共自身が今まで問題であった事が全然問題でなくなってくる。難儀と思うておった事は、むしろおかげであると気づかしてもらう。そこにいうなら、私の助かり、銘々の助かりがあるのです。人より我は尚よけれ。
 先ずは我が身に、おかげを受けてとおっしゃるのは、そういう境地を言うのではなかろうかとね。そういう例えば、むげな境地とでも申しましょうかね、自由な心の頂、あり方とでもいうのでしょうか。そういう心で私は、人が祈れれる。そういう心でお国を思い、教団を愛する、子供の為に、その愛情の全部を、注ぐと云う事になった時に、始めてお国が立ち。教団が立ち。いうなら子供が達、私共の周囲の一切の難儀が、解決して来るのではなかろうかと、私は思う。
 そこを抜きにしてです、そこを抜きにしてですね只、お国に事が心配でたまらんというて、なら、全国廻って歩いた所で、例えばまあ、失礼な言い方ですけれども、久留米の寺町に、高山彦九朗という、いわゆる忠臣の方の勤皇の志士ですね、お墓が御座いますが皆さん御承知でしょう。軍国華やかな時分は、もう、それこそ香華の絶え間がない。どういう国の大官でも久留米に来たら先ず、高山彦九朗の墓前に敬意を表すというのがもう、形の上だけでも、そうしなければならん様になっておる位に、言わばその当時の、まあ、華やかな存在であった訳なんですね。
 お国の為に腹を切って、久留米で死なっしゃったという訳なんです。ところがどうですか。敗戦と同時に今度はもう、あすこにお花一本線香一つ立てる者がなくなった。現在では色々観光ブ-ムやら、それから、色々な、成程立派な方であったに違いないですから、まあ、そのお掃除なんかが綺麗に行き届いてと云う様な事が今頃ちょっと新聞に出てましたけれどもね。
 私は何時も思うのですけれどもね、こういう時代に受ける、こういう時代には受けないとそれはほんなもんじゃないと、私は思うですから本当に自分の身を矢張りお国に捧げたという事は尊い事なんだけれどもです、自分のいわば死ぬると云う事に、例えばいうなら。一番大事なのは命でしょう。けれども命を捨てでもお国の事を思うと尊いですね。それは自分の子供の為に、それを思うというならば同じ。
 自分はどうなってもええから子供さえ立派になればと、けれどもです、先ず自分自身が助かっておらなければ、その心で国を思い道を思い又は、子供の事を思う。又、周囲の事を願うと云う事になってこなければですおかげにならんです。教祖の神様がです、この方は人が助かる事さえ出来ればと仰ってあるね。それは、どう云う事かというと、人より我は尚よけれというおかげを受けておられた。
 先ず我が身のおかげを受けておられたと云う事なんです。そして、後に難儀な氏子の言わば、人の世界、人の世界というとおかしいですけども、普通難儀、難儀でないものを難儀と思うておったり、迷うておったりしておる氏子の目を、いわゆる覚まさしてやろうと、肉眼をおいて心眼を開けよと仰るが。心眼を開かせてやろうと心眼を開いた世界には、只、有難いというものだけしかないのだけれど、そこに幸せしかないのだけれど、それを幸せと頂き切っていない氏子の為はにです、人の難儀が助かる事さえ出来ればと言う風に仰られた。成程そういう精神が尊いのです、有難いのです。
 けれども何というても、自分自身が真実の助かりを頂かずして、人の助かりはない。溺れておる者を見て、助けられると云う事は、自分自身が舟をもっておる。自分自身が徳を持っておる。自分自身が泳ぐ力を持っておる、でなかったら、助ける事は出来ますまいもん。一緒に自分も溺れてしもうて、腹切って死なんならんと云う事になりましょうもん。是では詰らんでしょうがね。
 どうぞ一つ、先ず自分自身が助かる事ね。その問題、その事をです、あれをもこれをもという訳には参りません。でもその事に限ってその事だけでもです、欲を離し御覧なさい。いわゆる金光様がそこんところを大概な問題は解決すると仰る。私共もまあ、凡夫程度の者の問題であったら、先ず、もう完全に私はそこから助かれれる道が開けて来る。その欲の中にも色々御座いましょうけれども、その欲がある限り、私共の真実の助かりというのはあり得ないのです。
 次の言わば高められた世界におかげを受けると云う事も不可能ですね。只、どうぞ助けて下さい、助けて下さい、どうぞここんところばおかげを頂きます様にて自分の我情我欲をです、例えばお縋りをする、お願いをするというね、そこの信心からね。一段高められた所へ私は、いわゆる先ず、我が身におかげを受けてというのはそう云う様な事。人より我は尚よけれというのは、そういおかげを頂かして頂くと云う事。そして後に人を助けてやれという、教祖の御理解をですね、只今、私が申しました様な事。
 いわゆる「てんこう」さんの言葉でから、大概の問題は欲を離せば解決するというね、あぁ、欲さえ離せば解決するそこに私の助かりがあり人の助かりがある。そういうおかげを一つ目指さして貰えれる、おかげにならなければならん為にです本気でひとつ実意丁寧神信心をなさらなければいけんのです。昨夜の私御理解のまあ申しました事ですけれども、もう本当にそのいわゆる我情我欲のない任せ方でなからないかんです。
 親先生任せになっときゃおかげになるけんで、任せたっちゃ詰らんち云う事。昨日ブラジルのブヨ-さんが帰って見えてから、私、ブヨ-さんとの二時間ばかりのお話合いの中に、それを本当に感じた、素晴らしい意味合いで、もう本当に私と会ったのは数えて十回位でしょう。けれども、遠くブラジルの地におられながら、あんな大きな事業をなさりながらです。その事もみんな親先生任せで解決しておられると云う事です。
 実に素晴らしいなとこう思うんですね。第一に、私昨日、久富さんの久富しげおさんの所の長男がもう、適齢期ですから皆さんが心配して、色々どこの娘さんをと色々心配して下さるんですよね、その秋山さんが、ああここの今話ておる秋山さんです。あのここにこう云う様な人があるが、どうじゃろうかと。お宅の国雄さん、名前は分らん、年は幾つげな、一遍親先生にお伺いしてみて下さい、して良かごたるなら、私が腰を入れて世話をするけんという意味で御座いましょう。
 それで繁雄さんがここでお届けをなさったんですよね。あれがね普通だったら、ああそり良かばい悪かばいと、例えば頂いてからああ、又改めていっちょそのお願いをするなら、お願いをすると云う事になるのでしょうけれどもね。そげな事じゃいかんて、も、ほんと考え今日私、御理解を頂いてみてから。こう云う様な願いがありゃせんだろうかと、もう、自分の便利の為にです、もう親先生にお伺いしてから、御神意を頂いて良かか、悪かか言わっしゃったら、良かち言いなさったら、なら言わばその改めて調べようと言った様なずるい考えです。
 これはね、そうしてから、御理解頂く事です。どこの何という娘さんは白か黒かほどはどの位、そして写真の一つ位貰うて来て。こんな人がおんなさるがどげな風じゃろうかお宅の国雄さんの気に入らっしるじゃろうかと、気に入らっしゃるごたるなら御神意を頂いて下さい、これでなからにゃいかん。秋山さんそれを言うときなさいあんたもそうじゃと、言う様な御理解だったですそれが実意丁寧神信心じゃとこうね。お世話でもさせて頂くからにはです、どこのこういう人、しかも色は黒い、器量はこんな風ほどはこれ位、写真の一枚ぐらい貰うて来て。
 こんな人があるそれが実意丁寧だと、お世話させて頂くでもそこんところを抜きにしてですね。歳は幾つばってん名前は分らん、お伺いししてから、先生が良かち言いなさるなら、私がこし、腰とお世話致しましょう。そう云うことが一時万事にです、そう云うことであって、実意丁寧神信心しておる者と言えるか。私はもう本当にこのことをですね。私は頂かしてもろうて。
 椛目の信心はそう云う様な私はその如何にも、らいらくなですかね。例えばそのブヨ-さんそれとは違うと任せるというたら、も、本当に何もかも任せて親先生任せというのと。自分の便利の為にいう任せ方とは違う。よく似ておる様なあるけれども、違うてね。そういう私が日々の信心の稽古を目の詰まった、言うなら、実意丁寧神信心行き届いた、日常生活の中においてです、只今今日私が申します様な御理解をですね、いわゆるマスタ-させて頂いたら素晴らしい事になるだろうとこう思うですね。
   どうぞ。